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ラグビーボールは日本の競走馬。1986年に中央競馬のクラシック戦線で活躍し、その後種牡馬として中山大障害優勝馬ユウフヨウホウなどの父となった。主戦騎手は河内洋。 == 戦績 == 馬主は珍名を付けることで知られる小田切有一。馬名の由来は「初めてこの馬を見たとき、ラグビーボールのようにあっちに飛んだり、こっちに飛んだりしていたから」というもので〔日本中央競馬会『優駿』2000年5月号、p.167〕、当初予定されていた「ブラックマジック」から変更された〔。 デビューは遅く、3歳(旧表記4歳)になった1986年2月22日の阪神競馬場で行われた新馬戦(ダート1700メートル)で初出走した。ここを単勝2番人気に応えて2馬身半差をつけて快勝すると、続く3月の400万下特別のさわらび賞も勝利。このころから「関西の秘密兵器」と競馬マスコミからも注目を浴びることになった。さわらび賞のあと、東京優駿を目標に定めた陣営は皐月賞を回避し、日程に余裕のあるNHK杯に出走することにした。初の東京競馬場で4番人気に推されたラグビーボールは、2着シンチェストに2馬身差をつけて優勝。3連勝を飾り、一躍ダービーの最有力候補として挙げられるようになった。本番となった東京優駿では、わずか3戦のキャリアながらも注目を集め単勝1番人気に推されたが、1着のダイナガリバーに0秒5差の4着に敗れた。 陣営はラグビーボールを夏の休養前に古馬混合戦の高松宮杯に出走させた。宝塚記念馬スズカコバンなどの古豪を抑えて単勝1番人気となり、それに応えて優勝し、実力があることを証明して見せた。このころから腱鞘炎による脚部不安が持病となり、調教も思うようにできなくなってしまい、のちの不振に繋がっている。 調教不足も祟ってか、秋シーズンのラグビーボールはあまり良い結果を出すことができなかった。初戦に選んだ京都新聞杯では5着、菊花賞では単勝1番人気に推されたが、2周目の4コーナーで挟まれる不利もあって3着に敗れた。菊花賞から中2週でジャパンカップにも出走し、レースレコードで優勝したジュピターアイランドに2馬身半差の4着に食い込み、勝てないながらも力のあるところを見せたが、このあと脚部不安が再発し、有馬記念へは出走することができなかった。 その後もふたたび出走することを目標に調整を重ねたが、そのたびに脚部不安が再発して出走できない状態が続いた。5歳(旧6歳)までこの状態が続き、翌6歳(旧7歳)に遂に引退を決定、種牡馬として供用されることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラグビーボール (競走馬)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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